認知
「読んだよ」とだけ言われたので
「読む人いた!!」となって書いているところです。
この毒にも薬にもならない文字の羅列に目を通してくださっている方がいる現実に猫背も伸びるというものです。
下書きだけ溜まっていってよろしくなかったので書く。2020年下書きしかしてない。
2021年も下書きしかしないままもう2ヶ月過ぎた。辛い。
もうまとまらず着地しないまま載せちゃおう。
社会、大人になるのを強いるけどその方が合理的だからで、こどもの倫理観ややり方がうまくいかないからではないか。
小さなコミュニケーションの単位でも、大きな組織の単位でも、こどものやり方だけで回ることは稀で、たいていは誰かが大人を真似て場を回す。
そこに至るためには客観性を備えていなければならず、それに気づけないことこそがこどもであることの証明ような気がする。
自分を自分なりに、対外的に捉えようとしないやつ、してこなかったやつはすぐわかる。
大人ってなんじゃろか、各々が在りたい大人に向かってふるまいを獲得していくわけだけど、場が形成する大人に集団がひっぱられて誰も望んでない姿になることもままある。
在りたいものが別にない人の方が多いのかもしれない。
早く素直で可愛いまっすぐな生き物になって本当に好きなことだけに愛を持ちたいな。
生きてるうちにできたら幸せ。
まーできなくてもそれはそれで幸せをみつけていく他ないでしょう。
別に幸せでなければならないこともない。
元気はない。
最近睡眠ができず困っています。
それでは
供養
生きてる限り急な別れはある。
もちろんゆるやかな別れもある。
別れは特別なことではなく、いたるところにぜんぜんある。
人間が二人以上場に存在すると、どうあってもコミュニケーションが発生する。
相性や損得、世間体、つきあい、縁、いろんな理由で交わったり離れたりする。
人間関係の維持はたとえ良好であってもそれなりにエネルギーが必要だから、ましてよくないものを続けるのであればその消費はすさまじい。
でも、大切にしたい理由がある限りはお互いにコストをかけてメンテナンスをする。
お互いにというのが一番むずかしいところだ。
関係の維持を上回るほどに大切にしたいものができたとき、優先順位をつけて少しずつ離れたり消えたりした結果、別れが発生する。
歳をとるとその原理にもっと早く気づくことができるし、離別は必ずしもマイナスなものではないと理解できる。
とはいえ、いくらか言葉を交わしたり、心を寄せた人が突然にいなくなるのは、私はやっぱり寂しい。
人には人の生き方があるし、タイミングだってあるし、「仕方ない」で片付けたりもする。知らないうちに嫌われてたかもしれないし、大切にするに値しない存在と見なされたのかもしれないなとも思うけど、そんなの相手しか知り得ないしもう聞けないなら考えるのは無意味なので、新たな空気を吸えるところで元気で生きてたらいいなと思う。
執着が強い人間だから割りきるのは時間がかかるけど、時間さえあれば諦められると思う。
今までありがとう。さようなら。
(む)ーぶおんなう
死ぬほどインドアで出不精で面倒くさがりで引きこもりな私が明日からひとりで大阪に赴き鞘師里保さんの出演するお芝居を観てくる。
このご時世だしどうせ当たらないでしょと思って9個くらいいれた先行で東京が全滅、唯一自力で取れたのが日曜日の大阪だった。ほんの気まぐれで1日だけいれた大阪だけが当たるのはなんだかいけないことをした気分だった…運を読み違えた感覚だ。負けた。
東京では縁あって雨下を観劇することができた。となると当然日和も観たい…ということで、日和の大阪を誰かに譲るわけにもいかず、日々の手洗いうがいとマスク着用とよく寝てよく食べることによる免疫力の維持でなんとかしようと決め、大阪に行くことにした。なんとかチケットが取れてから今まで咳くしゃみ発熱はみられない。みなぎっとる
言われなくても引きこもってるくらいにはお家大好き人間なので、チケットが取れても「でも円盤化決まってるんだよね?誰かに譲ったらよくない?」くらいの気持ちがなかったとは言えない。県を出るのも怖いことは怖いし。帰ってから罹患とかしたら頑張ってきた人が台無しになるし。
でも、結局鞘師里保さんが復帰して直後の舞台を観たい気持ちの方が勝った。いったい何が私を動かしているのか。
鞘師
すご
北海道に住んでた人間なのでいい歳して実は新幹線乗るのもこれが3回目くらいのひよっこなんですけど、明日は仕事を定時で終わらせて乗り遅れないよう頑張ります。
チケットとSuicaと元気、朝確認してから家でます。
それではおやすみなさい。
濃さ
なぜ冬より夏の方が情報量が多いと感じるのだろうか。
視覚の鮮やかさもさることながら生き物の皮膚や汗からのぼるにおいや木々のむせかえるような香りといった嗅覚のボリュームなのかも、とふと思った。
幕開け
まがいなりにもちいちゃなころにピアノを習い、吹奏楽部に所属していたので舞台裏や舞台袖に触れる回数は舞台に立たない人よりは若干多かった。
舞台の空間が好きな人の中に、袖の静謐さや緊張感がすきだ、という人は少なくないんじゃないかと思う。
と書いておきながら大学時代の先輩ひとりとしかその話をできたことはなかったが。私はあの舞台の前の特別な時間がすきだ。肌に触れる空気の冷たさもすき。舞台の上で人は孤独なんだぞと言わんばかりだから。ああいう緊張感は生活になかなか発生しない。たのしいと思う。
パフォーマンスを届けてくれる存在は、そういう孤独を飲み込んで、観客に見せたい自分を演出してくれる。どれだけありがたいことかは、観客であれば大なり小なり感じているだろう。
昨日は坂本真綾さんのライブツアー2019「今日だけの音楽」東京1日目があった。
オーチャードホールなのでホールコンサートというやつ。
コンセプトアルバムのツアーとありとても楽しみだった、真綾さんはいつも自分の考える最高のセットリストで臨んでくれるので毎回コンセプトを明確に打ち出してくれるアーティストではあるのだが、いざ先行してアルバムを聴いた上で浴びる音楽はとても書ききることのできない多幸感と、寂しさと、優しさがあった。私は初日の座間が取れなかったので昨日がはじめてのツアー入りだった。
今日だけの音楽。
あらためて言われると、つい「わかってるよ」って言いたくなるくらい、音楽の持つ性質そのものであるが、音は今しか鳴り得ないのだが、アルバムを通して再構成されたライブにおいてその説得力はすさまじい。
ツアーの途中で、「明日(27日)もライブが予定されているが、私が死んだら今日で最後だ。真綾さんが風邪ひいちゃっても終わり。」と急に考え込んでしまった。当たり前に予定されてるわけじゃない。双方が落ち会わないとそこに音楽が鳴ることはない。
私がすきなアーティストたちはみんな個対個でいろいろを届けようとしてくれるのでいつも勝手に救われる。その都度拾えるものだけを大切に抱えて、「次」の約束を無邪気にかわす。
今を追いかけられることは幸せだ。生きているから見つめられるし、伝えられるし、泣くことも笑うことも手を振ることもできる。
できる精一杯で応援したいし、やりたいが尽きるまで活動してほしい。もちろん無理だけはしないでほしいし、待つこともできるので信じてほしい。
信じてもらえるように、できることをやる。観客のできる精一杯をやり続けようと思った。
あと10分で、今日の、今日だけの音楽がはじまる!たのしみ!
わくわく
明日なんとモーニング娘。'19のライブに行く。
自発的にアイドルのライブに、しかも3次元のアイドルのライブに行く。
今年アイドルのライブに行くのは2回目である。ちなみに1回目も娘。さんである。
なんで急にどした?っていうと、なんてことはない、ハロヲタのお知り合いが増えてみんなの好きを毎日のように見聴きするうちに「行ってみたいなあ~」と思ったからである。
のである。
はじめての娘。がRIJFなのもかなり贅沢だと思うけど2回目が代々木なのもなかなかですよね。めちゃくちゃに楽しみです。
思い入れや執着が重たくなる気質なのでハマったらキモいやつになってしまうのと、3次元の実在ぶりにふと怖くなってしまうときがあって人生の今の今まで生身のアイドルコンテンツを避けてきたのに本当に愚か。もはや推しとか見つけたくない。一定の距離を保って箱推しのスタンスでいたい。個人じゃなくてグループ塊としてみてたい。
多分無理なんですけど…。
いやでも娘。さんはいけそうな気がしてきます!ハロプロの他のグループも実はこそこそとMV見て曲を覚えたりしています、あまりに膨大なので直近のものからになってはいるんですけれど。予備知識なしでも面白いくらいグループそれぞれのカラーが出ていて、言語化するにはもう少し知る必要があるなと思いつつ、雰囲気だけを楽しめるのは今だけだしもうそれがすごい楽しい。
(楽しいだけではないアイドルの世界を変革しようとしている動きだったりもっと見えないところで新しいことをはじめているアイドルもいたり、知らないだけできっといろいろなことが起きているんだろう。それを応援する人がいて、その構図にまた新しいドラマがあって…。それらすべてが連続した生活なのでわくわくします。私はバンドのライブからそれを受け取って暮らしているのできっとアイドルからもなにかを勝手に受け取れるのではないかと期待しています)
アイドルにはどこまでも偶像であってほしい派なので(2次元の妄想は別)、明日は全力でパフォーマンスを浴びるぞ。
いや正直、全体としてみるべきところが多い。コンテンツの供給量にびびった。福利厚生。楽曲追うだけでも1年は楽しめるよね…?すごいですね。完璧主義オタクじゃなくてよかった。幸せは伝播するから、楽しんで帰ってきたら誰かに話しきいてもらいたいです。まーじで楽しみ!!
なんでなんでどうして?
あーーーー文章まとまらん〜〜〜。
練習と研鑽!めげずに続けるべし。
以下、深夜の私がべそべそまとまら〜んって鳴きながら書いたものを早朝の私がはいはいって言いながら直したり加えたりした文章。
久しぶりに解像度が近しい人とめいっぱい話をした。
脳をガンガン使って言葉を話したので90分×2の授業に参加したときみたいな達成感と、普段使うのを避けていた筋肉を久々に使ったときのような疲労感がある。
考える道筋が似ていると、考えが真逆でもお互い許容できることが多い。同調はできないけどそういう考え方が生まれるのはわかるよ、って感じ。過程の想像ができる。
以前友人が「さとは丁寧に話をしてくれるので考えが違っても納得いくところに着地できる」って教えてくれたことがあった。大学生のあいだはとりわけ対話を大切にしたいなと思っていたから、そんな風に言ってもらえてとても嬉しかった。
話をするときに同じくらいの熱量を持ち寄ってくれる人でないと掘り下げて話すのって難しい。
熱量とは、互いに敬意があるか。前提とするものの認識が擦り寄せられているか。最低限の知識はあるか。など、たくさんの観点が複合的に結ばれた上で測られるものだと思う。
多々ある要素のいくつかが不釣り合いな状態の場合、均すところからはじまるから、エネルギーの大きい方の人はそのすべてで臨むことができない。小さい人に合わせて、ときに説明したり、相手の本当に出したかった結論に合わせていくつかの示唆を投げかけたりすることがある。それはそれで実りのある時間ではあるけれど、バランスはあんまりよくないかもしれない。
同じくらいの熱量の人とはとにかく会話のテンポがいい。できる限りストレスを排除しての会話ができる。行き詰まったり考えてる時間も含めて、多分相手は今このラインあたりのことを考えている…!という感覚値を共有できているから、集中力も続くし最短距離でパスの応酬を続けられる。もしズレても、相手もそれを理解した上で軌道を修正してくれるのがわかるから、「わかる!!」が連続コンボする感じ。それは言語を使用しているときに得られる快感のひとつだと思う。掘り下げたい漠然としたゴールが対話中に自然と狭まってある地点で結実した時の気持ちよさはなかなか他では代え難いものがあると思う。
少しずれるけど、全く別の経験が急につながるときの気持ちよさもあるよねって話をした。その感覚の話をしたいって思う人がいること自体に興奮してしまい、お店でなかったら踊り狂っていたところだったと思う(いつでもダンスフロアにしてやる気概だけはある)。
うんやっぱり置き換えと応用の話は長くなりそうなので頑張って別で書きます。
「あのへん」の感覚の話をするのはとても難しいので、そして通じなかったときのダメージがそこそこえげつないので、つい自分を守って線引きしてしまうけれど、本当は話してみたいと思っている。そういう言語抽出がやっかいな領域の話を聞いてくれる・話してくれるひとをすぐ信頼してしまうし、心の拠り所にしてしまう。音楽がすきなのはそれ故にな気がするし、人の創作物を楽しむのはそこに手がかかっているからなんじゃないかと思えてきた。People In The Boxの話もまた別でしますね。
私は「他人が日頃考えていること」について大きな関心があるので、いつでも作業通話とかゲームとかなんかに誘ってほしいです。返せるかはわからないけど努力する!
読んでくれてありがとうございました!ラブ