まばたき

雑記

なんでなんでどうして?

あーーーー文章まとまらん〜〜〜。

練習と研鑽!めげずに続けるべし。

 

以下、深夜の私がべそべそまとまら〜んって鳴きながら書いたものを早朝の私がはいはいって言いながら直したり加えたりした文章。

 

 

 

久しぶりに解像度が近しい人とめいっぱい話をした。

脳をガンガン使って言葉を話したので90分×2の授業に参加したときみたいな達成感と、普段使うのを避けていた筋肉を久々に使ったときのような疲労感がある。

 

考える道筋が似ていると、考えが真逆でもお互い許容できることが多い。同調はできないけどそういう考え方が生まれるのはわかるよ、って感じ。過程の想像ができる。

以前友人が「さとは丁寧に話をしてくれるので考えが違っても納得いくところに着地できる」って教えてくれたことがあった。大学生のあいだはとりわけ対話を大切にしたいなと思っていたから、そんな風に言ってもらえてとても嬉しかった。

 

話をするときに同じくらいの熱量を持ち寄ってくれる人でないと掘り下げて話すのって難しい。

熱量とは、互いに敬意があるか。前提とするものの認識が擦り寄せられているか。最低限の知識はあるか。など、たくさんの観点が複合的に結ばれた上で測られるものだと思う。

多々ある要素のいくつかが不釣り合いな状態の場合、均すところからはじまるから、エネルギーの大きい方の人はそのすべてで臨むことができない。小さい人に合わせて、ときに説明したり、相手の本当に出したかった結論に合わせていくつかの示唆を投げかけたりすることがある。それはそれで実りのある時間ではあるけれど、バランスはあんまりよくないかもしれない。

 

同じくらいの熱量の人とはとにかく会話のテンポがいい。できる限りストレスを排除しての会話ができる。行き詰まったり考えてる時間も含めて、多分相手は今このラインあたりのことを考えている…!という感覚値を共有できているから、集中力も続くし最短距離でパスの応酬を続けられる。もしズレても、相手もそれを理解した上で軌道を修正してくれるのがわかるから、「わかる!!」が連続コンボする感じ。それは言語を使用しているときに得られる快感のひとつだと思う。掘り下げたい漠然としたゴールが対話中に自然と狭まってある地点で結実した時の気持ちよさはなかなか他では代え難いものがあると思う。

 

少しずれるけど、全く別の経験が急につながるときの気持ちよさもあるよねって話をした。その感覚の話をしたいって思う人がいること自体に興奮してしまい、お店でなかったら踊り狂っていたところだったと思う(いつでもダンスフロアにしてやる気概だけはある)。

うんやっぱり置き換えと応用の話は長くなりそうなので頑張って別で書きます。

 

「あのへん」の感覚の話をするのはとても難しいので、そして通じなかったときのダメージがそこそこえげつないので、つい自分を守って線引きしてしまうけれど、本当は話してみたいと思っている。そういう言語抽出がやっかいな領域の話を聞いてくれる・話してくれるひとをすぐ信頼してしまうし、心の拠り所にしてしまう。音楽がすきなのはそれ故にな気がするし、人の創作物を楽しむのはそこに手がかかっているからなんじゃないかと思えてきた。People In The Boxの話もまた別でしますね。

 

 

 

私は「他人が日頃考えていること」について大きな関心があるので、いつでも作業通話とかゲームとかなんかに誘ってほしいです。返せるかはわからないけど努力する!

 

読んでくれてありがとうございました!ラブ